2022年1月の礼拝説教から

 
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  説教 「恵みの時、救いの日」
コリントの信徒への手紙二6章1〜10節
 
           
  「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(2節)  
 



 
           
   パウロは、「神の協力者としてあなたがたに勧めます」と述べています(1節)。「神の協力者」(口語訳聖書「神と共に働く者」)。パウロにとってそれは自分のことだけではありません。この手紙の宛先であるコリントの信徒たちがそうであり、主に召された私たちもそうなのです。しかし、そう言われると、複雑な気持ちになりませんか。神の栄光を現わすどころか、ご栄光を汚すような者がどうして神の協力者なのでしょうか。
ところが、パウロは言うのです。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(コリント一1章21節)。キリストご自身、正しい人ではなく罪人を招くために来られた方です(マタイ9章13節)。罪人や資格のない者を用いる方でもあります。ペトロがそうでした。「罪人の中で最たる者」(テモテ一1章15節)と告白したパウロもそうでした。キリストの絶大な恵みによって救われたことを感謝する者が、「宣教という愚かな手段」に用いられるのです。そこから「羊を産むのは羊飼いではなく、羊だ」という諺も生まれました。信徒の働きが欠かせないのです。その意味でも、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(1節)。
 この勧めの根拠はこうです。「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2節)。『 』は、イザヤ書49章8節の御言葉です。捕囚の真っ只中にあったイスラエルの民に予告した御言葉です。キリストの一方的な恵みによって救われたことを告げる、福音も同じです。
 この手紙の受け取った、コリントの教会はさまざまな問題を抱えていました。
「これでも教会?」と思えるほどでした。心ある信徒は、悩んで来ましたし、苦しんで来ました。けれども、彼らが直面したのは、そうした問題だけではありません。それよりも重大なことがあります。それは、今が「恵みの時・救いの日だ」ということです。悩ましい現実に心を痛め、自分の非力と弱さを嘆かねばならない、そんな私に差し出されている主イエス・キリストによる恵みと救い。「それを、今、ここで感謝して受け取ろう。何事もここからしか始まらない」。パウロはそう呼び掛けているのです。
 主イエスは言われます。「見よ、わたしは戸口に立って、叩いている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3章20節)。キリストは、悩みや破れを抱える私たち一人一人の心の戸を叩いておられます。

 
   (1月2日礼拝説教から。牧師井上一雄)