2022年2月の礼拝説教から

 
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  説教 「希望によって救われている」
ローマの信徒への手紙8章18〜25節
 
           
  「わたしたちは、このような希望によって救われているのです(24節)  
 



 
           
   「苦しみは祈りを教える」という諺があります。実際、苦しみを負って祈りを学び、悩みの中で思いが深まります。しかし、苦しみは「祈りを虚しくさせる」ものでもあるのではないでしょうか。
では、何が本当の意味で祈りを起こし、祈りを教えるのでしょうか。それは、苦しみそのものより神です。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50篇15節・口語訳)と神は言われます。神の名を呼ぶだけ、それも祈りです。
17節の「キリストと共に苦しむなら」という勧めは、「キリストが共に苦しんでくださるから」という事実に基づくものです。罪の結果としての「身から出た錆」のような苦しみを負って悩む、その私たちもキリストに担われているのです。
18節の御言葉は、天秤をイメージして語っています。片方の皿に「現在の苦しみ」を乗せ、もう片方に「将来わたしたちに現されるはずの栄光」を乗せる。すると、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」が釣り合わないほど重いことが分かる。――パウロはそう言うのです。
物乞いをする盲人を見て、弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」と、過去との関係で苦しみの因果を問いました。しかし、主イエスは「神の業がこの人に現れるためである」と答えておられます(ヨハネ9章1〜3節)。私たちを生かすのは、過去や現在だけではありません。神がくださる「未来」でもあるのです。
「被造物は虚無に服していますが」(20節)とあります。ここでいう「被造物」は、自然界のことです。「虚無」と訳されたギリシア語は、「虚しい者・偶像」、つまり人間のことです。まことの神ではない人間が神のように振舞うとき、自然が虚しくされます。自然の管理を託されたアダムとエバが罪を犯した際、神はこう告げられたことを忘れてはなりません。「お前のゆえに、土は呪われたものとなった」(創世記3章17節)。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている・・・”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、・・・体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(22,23節)。生きる上での苦しみや死を前に、私たちも「うめき」ます。しかし、それは「産みの苦しみ」、つまり新しく生まれるための苦しみです。その苦しみに耐えるために、神は私たちに「聖霊」という初穂をくださっています。
「おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつ外して行くのは、真にえらい仕事」(ヘルマン・ホイベルス『最上のわざ』)ですが、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(24節)。
 
   (2月6日礼拝説教から。牧師井上一雄)