2022年3月の礼拝説教から

 
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  説教 「わたしたちの罪を担う」
イザヤ書53章1〜10節,ペトロの手紙一2章22〜25節
 
           
  そのお受けになった傷によって,あなたがたはいやされました(24節)  
 



 
           
   「ああ主はたがため世にくだりて、かくまで悩みを受けたまえる」という讃美歌をご存知だと思います(298番)。主イエスは、なぜ十字架を負い、なぜ苦しまなくてはならなかったのでしょうか。私たちも十字架の主を仰いで、そのことを問います。しかしそれは、救いの入り口に立つことでもあります。
この手紙の2章22〜25節は、そのことを深く考えるイザヤ書53章そのものです。主イエス苦しみの意味を考えるために、イザヤ書のこの御言葉が最もふさわしいからではないでしょうか。実際、イザヤ書53章9節を引用して、こう言います。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22節)。
多くのユダヤ人はそう考えませんでした。主イエスの振る舞いには、神を冒?する重大な罪があり(例:マルコ2章7節)、律法の解釈にも重大な問題があり、死刑に処するほどの重い罪がある、そう考えました(例:ヨハネ5章18節)。そのため、主イエスを逮捕し裁判に訴えました。
それを受けた、ローマ総督ポンティオ・ピラトはどうでしょう。行政官であり、法律家でもある彼が法のもとで下した判断は、「あの男に何の罪も見出せない」というものでした(ヨハネ18章38節)。それにもかかわらず、民衆の訴えを聞いてバラバを釈放し、替わりに主イエスを処刑してしまいます。恐ろしいことです。
しかし、人の評価がどうあれ、またこの世の法がどう判断しようと、聖書はこう言うのです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」。
大方の犯罪人は、罪を犯したにもかかわらず、罪人のレッテルを貼られるのは辛いといいます。ところが、主イエスは、自ら罪人の立場にご自分の身を置かれます。人々から容赦ない罵声を浴びました。不当な判決を受け、鞭打たれました。その手、その足に太い釘を打たれました。しかし、それ以上に苦しかったのは、罪無き方が罪人として断罪されたことではなかったでしょうか。
それについてある人は、「ここで起っていることは、不思議な交換だ」と言います。「罪無き方が罪人として断罪され、それによって、罪人が罪赦されて罪無き者とされる。十字架とは、そういう不思議な交換なのだ」。そう言うのです。イザヤが「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの苦しみ」(53章4節)と言うのは、そのことです。
ペトロはイザヤ書に従って、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と告げています(24節)。普通、傷を癒すものとして、薬や時間を考えるかも知れません。しかし、人間の罪は、最終的にキリストの傷によって癒され、救いもこの方のみによるのです。
 
   (3月6日礼拝説教から。牧師井上一雄)