2022年4月の礼拝説教から

 
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  説教 「十字架上のイエスの叫び」
マルコによる福音書15章33〜34節
 
           
  これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(34節)  
 



 
           
   主イエス・キリストが十字架につけられた時、昼の12時から3時まで闇が全地を覆いました(33節)。この闇は何を意味するのでしょうか。何の意味もない、偶然だという人がいます。皆既日食などの自然現象が起きたのだろう、という人もいます。文学的に、あるいは哲学的に深堀りする人もいます。しかし、聖書はこう言います。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモス8章9節)。
その御言葉の通り、この闇は人間の罪の現実と悲惨を映し出す闇であり、神がもたらされた、悔い改めを求める闇であり、神の裁きの闇なのではないでしょうか。この深い闇は、私たちの罪の現実にも、今、ウクライナを覆っている闇にも繋がっているのです。
この闇の中で、イエス・キリストは大声で叫ばれます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。そういう、アラム語による生々しい叫びです。二つ目の問いは、この叫びが何を意味するかということです。
この叫びに、「人間・イエス」の絶望を読み取る人がいます。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」で始まる詩編22篇にその答えを見出そうとする人もいます。私たちも、「主は、・・・御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます」(詩編22篇25節)という告白に安堵するのかも知れません。
 しかし、それが全てではありません。この叫びをもって、全地を覆っていた闇は終わったのです。罪無き方がこのように裁かれたことによって、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15章38節)のです。それらが意味するのは、こういうことではないしょうか。
 死に臨んで、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなくてはならない者に代わって、主イエスが叫んでくださった。断罪されなければならない者に代わって、罪無き方が断罪された。穢れた者を神の御前に立たせるために、大祭司キリストが自ら全き犠牲となってご自身を献げてくださった(ヘブライ10章11~14節)。
――それが、全地を覆う闇が終わったことの意味であり、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことの意味なのではないでしょうか。だからこそ、主イエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのです(ヨハネ19章30節)。主イエスが十字架によって引き起こされたのは、神の愛による不思議な交換であり(ガラテヤ3章13節)、救いの完成の確かな保証なのです(マタイ26章26~28節)。

 
   (4月3日礼拝説教から。牧師井上一雄)