2022年5月の礼拝説教から

 
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  説教 「キリストに結ばれた者として」
ローマの信徒への手紙9章1〜5節
 
           
  わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない(1節)  
 



 
           
   パウロは自分を「キリストに結ばれた者」と言います。「キリストに結ばれる」は、ギリシア語の原文で「エン・クリストー」(英語「イン・クライスト」)です。この言葉は、彼の書簡を紐解く肝(キモ)であるだけでなく、私たちキリスト者の本質を表す言葉でもあります。最近出版された聖書協会共同訳は、「キリストに結ばれる」(関係の概念)を「キリストにある」(場所の概念)に変えて訳しています。
自らを「キリストにある」というのは、自分がキリストの内以外のどこにも存在しないことを意味し、キリスト以外の所で生きようとしないことの表明でもあります。喜びも悲しみも、罪も破れも、生も死も、そして自分そのものがキリストに担われ、潔(きよ)められているのです。
コロナ感染症の脅威や、ロシアによる侵略戦争の悲惨を目の当たりして、「なぜ。どうして」と神を問うかも知れません。苦難に遭ったヨブもそうでした。しかし神は、「これは何者か。知識もないのに・・・お前に尋ねる。わたしに答えてみよ」と、彼に問います(ヨブ記42章3,4節)。神に問われている。行動が問われている。生き方が問われている。信仰が問われている。人間とはそうした存在なのだ、というのです。
それでも神を問う。そういう私たちには、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と執り成す、キリストがインマヌエルとして与えられている。それが答えです。私たちには、その主の執り成しによって、「平和を実現する人々の幸い」(マタイ5章9節)に生き、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12章13節)ことが求められています。
そのためパウロは、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9章3節)と告白します。この悲しみと痛みは、神に選ばれたイスラエルである同胞がキリストを頑なに拒んでいることによります。愛する人々の救いを切に願う者にとって、この「深い悲しみ」と「絶え間ない痛み」(2節)は自分の悲しみと痛みではないでしょうか。
 しかし、「○○のためならば、・・・神から見捨てられた者となってもよい」と思うほどの熱意が、人を救うのではありません。外国の権威ある聖書は、「同胞のためならば」の前に、「できることなら願います」という言葉を添えています。
主イエスすら、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。・・・しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26章39節)と告白しておられるのです。神とその御心に心から信頼して、私たちも愛する人々の救いのために尽くしたいと思います。
 
   (5月1日礼拝説教から。牧師井上一雄)