2022年7月の礼拝説教から

 
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  説教 「御言葉は、あなたの口、あなたの心にある」
ローマの信徒への手紙10章5〜13節
 
           
  御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある(8節)  
 



 
           
   旧約聖書に精通したパウロは、旧約聖書に自力で救いに達する道と、いわば他力で達する道があることを述べます。
最初は、自力で達しようとする道です。「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』と記しています」(5節)、と言ってレビ記18章5節を取り上げます。そうあるように、律法は実際行わなくてはいけません。律法による義(=救い)は、結果を要求するのです。そのため、その通り生きられない自分にいらだちます。他人の罪も赦せません。律法主義に陥ることもあります。
 律法ではなく、「自分の思う義=正しさ」を物差しにするのはどうでしょう。罪に「的外れ」という意味があるように、的外れな生き方になってしまうのではないでしょうか。実際、私たちは自分の「正しさ」によって罪を犯します。その道にも救いはありません。熱心な律法主義者だったパウロは、ローマ書3章で詩編を引用してこう言います。「義人はいない。一人もいない」(10節・口語訳)。そう述べた上で、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」と本音を語っています(20節)。
 旧約聖書によって神が示されるのは、信仰によって義とされる道=主イエス・キリストによって救われる道です。申命記30章を引用して、「だれが天に上るか」と言えばキリストを引き降ろすことになる(6節)、「だれが底なしの淵に下るか」と言えばキリストを死者の中から引き上げることになる(7節)、そう述べています。申命記が言う、その「だれ」とは、私たちを救うために十字架に掛けられて死に、陰府に下り、復活して天に上られた主イエス・キリストなのです。
 8節で「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある』。これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」、そう言っています。私たちが自分の口で語り、心から信じている御言葉(申命記30章14節)とは何でしょうか。もちろん、誰かの教えではありません。実際、陰府に下り、天に上って私たちに救いを与えたのは、主イエス・キリストだけです。だからこそ、「イエスは主である」という告白(9節)そのものが、私たちの近くにあり、心にある御言葉なのです。
 『ぼくは川のように話す』という、実話に基づく絵本があります。少年時代、吃音に苦しむ彼に、父は、突っかかったり、渦巻いたりして変化に富む川を見せ、「お前はこの川のように話しているのだよ」と言って、自分らくし生きるように諭します。私たちにも言えることではないでしょうか。話し方が下手でも良いのです。突っかかっても良いのです。口ごもっても良いのです。「イエスは主である」(9節)と心を込めて告白することが大事なのです。
 
   (7月3日礼拝説教から。牧師井上一雄)