2022年9月の礼拝説教から

 
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  説教 「一つの体・多くの働き」
ローマの信徒への手紙12章3〜8節
 
           
  キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです
(5節)
 
 



 
           
   世の中には、「戒めを守ること」が信仰生活の全てだと考える人がいます。ローマ書は、そうではありません。信仰生活は「神の憐れみに対する感謝の応答」です(12章1節)。その課題は心や内面の問題に限りません。12章では、「迫害する者のための祈り」(14節)、「すべての人との平和な暮らし」(18節)、「敵に対する愛の行い」(20節)を勧めます。信仰生活とは、信仰をまだ持っていない家族、友人、知人、世の人々を含めて、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(15節)生活、社会生活でもあるのです。
 もちろん、信仰生活の「要」は教会生活です。ここでパウロは、「与えられた恵み」によって勧めています。「恵み」はギリシア語で「カリス」といいますが、この言葉から「カリスマ=賜物」という言葉が生まれました。神によって一方的に与えられる選びや救いの「恵み=カリス」は、「賜物=カリスマ」ももたらしました。そのため、自分を誇ることはできません。誇るべきは、主です(コリント一1章2831節)。
 「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」(3節)という場合の「あなたがた」は、「キリストに結ばれて一つの体を形づくっている」(5節)私たちのことです。教会は、ある見方からすれば「人間の集まり」に過ぎません。「罪人の集まり」ですらあります。そのことだけ大きくすると、躓(つまず)くことは容易です。重要なのは「キリストに結ばれている」という事実です。それを恵みとして実感する人が、教会に連なり続け、教会を形づくることになります。
 「キリストに結ばれる」は、原典では「(ギ)エン・クリストー」です。「(英)イン・クライスト,(日)キリストの内に,キリストにあって」、または「(英)ウィズ・クライスト,(日)キリストに結ばれて,キリスト共に」と訳されます。どっちも味わい深いものがありますが、「キリストの体」としての教会を形づくることからすれば、前者がふさわしい理解なのかも知れません。
 その、キリストに結ばれている=キリストの内にある人は、「自分を過大に評価してはなりません(口語訳聖書・「思うべき限度を越えて思いあがってはなりません」)」(3節)。私たちの自己評価や言動に過大さや思い上がりがあれば、主によって必ず砕かれます。
 実際、教会に連なれば、キリストに結ばれて一つの体を形つくる恵みと、その部分として生かされている恵みを味わうことになります。教会にはたくさんの人がいますが、同じ働きをしていません(4節)。各自に与えられた賜物を用いて、神と人に仕えています。「弱く見える部分がかえって必要」ですらあります(コリント一12章22節)。そのこともまた、大いなる恵みです。
 
   (9月4日礼拝説教から。牧師井上一雄)