2022年10月の礼拝説教から

 
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  説教 「愛の負い目」
ローマの信徒への手紙13章8〜10節
 
           
  互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません(8節)  
 



 
           
   「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」ということは、「互いに愛し合うことでは、どんな人にも借りがあっていい」ということになります。「借金でも人からの恩でも、借りたら返すのが人の道」と教え込まれて来た者には驚きの発言です。
「借り」と訳されたギリシア語(オフェイレー)には、「借金」と「負い目」という意味があります。勿論、「借金」と「負い目」は、同じではありません。「借金」は、返えすことが可能です。「負い目」となると話は別です。精神的なものですから、人の生き方に深く関わります。
主イエスは、「主の祈り」の中で「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と教えておられます(ルカ11章4節)。罪は、「負い目」でもあるのです。因みに、主の祈りのこの「負い目」という言葉と、今日のローマ書13章8節の「借り」という言葉は、ギリシア語が同じです。
 戦争で生き残った人の中には、人を殺したり、人を助けられなかった罪に苦しむ人がいます。私たちにも、「してしまった罪」、「しなかった罪」、「負い目」としての罪があります。大切な人に対する負い目があります。しかし、「負い目」を無視してはなりません。それによって生き方が定まることがあるからです。
自分の罪に苦しんだパウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。・・・だれがわたしを救ってくれるでしょうか」、そう叫んですぐ、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と告白しています(ローマ7章24,25節)。つまり、「愛することの借り」は、主イエスによって愛され、罪を赦されているという、破格の愛に根ざすものです。その愛は、いくら返そうとしても返し切れない、生き方を変えるほどの「負い目」としてあるのです。
マタイ福音書18章21節以下に、「仲間を赦さない家来の物語」があります。単なる教えではありません。十字架という代価を払って罪を赦そうとする主イエスの決意表明です。そのため、キリストによって罪赦された者としての私たちの愛の業は、この測り知れない恵みに対する「ささやかな応答」です。そして、到底返し切れない恵みに対する、「喜ばしい負い目」なのです。
 主イエスご自身、こう言っておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28,30節)。この主イエスに対する、返し切れない負い目に感謝して、少しでもお返ししようとして生きるのが、信仰生活なのではないでしょうか。
 
   (10月2日礼拝説教から。牧師井上一雄)