2022年11月の礼拝説教から

 
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  説教 「私たちをつなぐキリスト」
ローマの信徒への手紙14章13〜19節
 
           
  キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです(15節)  
 



 
           
   教会はギリシア語で「エクレシア(主に呼び集められた者の群れ)」と言います。イエスを主とするのは、集う者、皆同じです。しかし、生活の仕方、考え方、背景にあるものは、必ずしもそうではありません。人種、言語、文化など、多様な背景を持つ人たちがいるローマ教会にとって、その違いは時に深刻な問題を生みした。しかし、違いがあることは主の教会の豊かさの証明でもあります。
 主にあるその豊かさを大切にしたパウロは、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」と勧めています。「従って」は、14章7節以下を受けた言葉です。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(8節)と言う通り、私たちを結び付けているのは主です。しかも、「皆、神の裁きの座の前に」(10節)、キリストという同じ衣を身にまとって立ちます(13章14節,エフェソ4章24節)。だから、「もう互いに裁き合わないようにしよう」というのです。
 ローマ教会には、「野菜だけ食べる人」がいました。神はこのような人も受け入れておられます(14章4節)。それにもかかわらず、「信仰の弱い人だ」と軽蔑する人たちがいました(1~3節)。そのため、集まっても一緒に食事ができないのです。ユダヤ教徒だったパウロは、今は「何でも食べる人」になっていました。しかし、その自由を人を裁くために用いません。
 それには、ローマの百人隊長コルネリウスが主の僕になった時の、「ペトロが見た幻」(使徒10章9節以下)の経験が根底にあります。――レビ記11章などで聖書が食べるのを厳しく禁じる、獣や地を這う生き物を、神は「屠って食べなさい」とペトロに命じます。「清くない物、汚れた物は食べたことがありません」と答えると、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と諭されました。
この出来事は、ペトロだけでなく教会に与えられた神の啓示であり、教会が共にあずかる経験にもなりました。「野菜だけ食べる信仰者」も、神が清めた者なのです。私たちが「清くない」と思う人も、受け入れられない人もそうです。「互いに裁き合わないようにしよう」という勧めは、物事を丸く収めるための建て前や、単なる生活の知恵ではないのです。
「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその人のために死んでくださったのです」とあります(15節)。コリント書でも、「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」と述べています(コリント一8章11節)。
私のためにもその人のためにも死んでくださった、キリストの確かな執り成しの中で、私たちは交わり、生きているのです。
 
   (11月6日礼拝説教から。牧師井上一雄)