2022年11月の礼拝説教から

 
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  説教 「恵みのあかりを灯して」
マタイによる福音書25章1〜13節
 
           
  十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く(1節)  
 



 
           
   イザヤは告げます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ書9章1節)。闇とは、世界を覆うカオス(混沌)であり、死の世界です。闇とはまた、救いを知らない無知であり、罪をもたらすものです(ヨブ記18章5,6節)。イザヤが告げた、死と無知と罪の世界に届けられる光は、キリストのことです。アドベントは、死の陰の地に住む者が、キリストに「大いなる光」を見る時なのです。
 主イエスが十字架を目前にして語られたのは、花婿を迎えに出る「十人のおとめのたとえ」です。これによって示すのは、喜びであって悲しみではありません。終わりの日に私たちがお会いするのは、十字架にかかり、救いを完成されたキリストです。この「たとえ」は、十字架が終わり(=完成)の日の喜びと希望の始まりであることを示すものです。
十人のおとめは、喜んで花婿を迎えに行ったことでしょう。ところが、「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」とあります(2節)。しかしそれは、「あの人は愚か。この人は賢い」というレッテルを貼るためのものではありません。語られているのは、裁きではなく招きです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ3章16節)の招きです。
「花婿の来るのが遅れた」とあります(5節)。この言葉に、初代教会の人々への配慮を見ることができます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」と主イエスは予告しておられました(24章36節)。それがいつか分からなくても、私たちはキリストにお会いする希望に生きるのです。
「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこでおとめたちは起きて、それぞれのともし火を整え」ます。この時、油が切れたおとめたちは、「わたしたちのともし火は消えそうです」と叫びます(6~8節)。――この物語にいて、賢いおとめたちや、愚かなおとめたちを締め出した主人の意地悪さを問題にする人がいます。しかし、譬えは元々一つか二つの大切な真理を示すためのものです。問われているのは、ともし火を灯し続けて終わりの日に向かうことです。
最近、「植物由来の○○」という言葉を聞きます。その油が「わたし由来の信仰・祈り・愛」だと、遅かれ早かれ尽きてしまって、「わたしのともし火は消えそうです」と叫ぶことになります。しかし、神が私たちの内に灯してくださった、聖霊と御言葉という「神由来」の火と油は、消えることも、尽きることもありません(ローマ8章11節)。「あなたの御言葉は、わが足のともし火、わが道の光です」とある通りです(詩編119篇105節・口語訳)。
 
   (11月27日アドベントの礼拝説教から。牧師井上一雄)