2023年1月の礼拝説教から

 
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  説教 「教え・交わり・聖餐・祈り」
使徒言行録2章42〜47節
 
           
  彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(42節)  
 



 
           
   初代教会以来、教会が礼拝とともに大切に受け継いで来たもの。それが、ここでいう教え、交わり、パン裂き、祈りです。教会が大切にするのは、その中心に主イエス・キリストがおられるからです。
 一つ目は「使徒の教え」です。トルストイは「イエスとその教えが描かれている福音書だけが聖書だ。教会の教えは大事ではない」と言いました。それとは別に、「聖霊、聖霊」と言いながら、自分の体験を語りたがる人の中に、「大切なのは霊的な体験であって教えではない」と言う人もいます。確かに人を救うのは、キリストです。教えではありません。
 しかし、教会の主は誰で、私たちは誰に仕えているのでしょうか。そもそも私たちは誰の名によって洗礼を授けられたのでしょうか。主イエスは昇天される前、ご自分の権能を託して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃいました(マタイ28章16~20節)。聖霊において、主イエスは今も教会を通して働いておられるのです。
 二つ目は「相互の交わり」です。口語訳聖書は「信徒の交わり」と訳しています。もし、「自分一人の心を満たすことだけ」が信仰の目的だとすれば、「交わり」は要りません。教会も要らないかも知れません。動物のヤマアラシが長く鋭い針で傷つけるように、罪の針の恐ろしさを知っていければなおさらです。
 しかし、教会の「交わり」の中心におられるのも主イエスです。イエスに死なれた弟子たちは、戸に鍵を掛けて自分のカプセルに閉じこもりました。恐れたのです。しかし、復活の主が来て、その真ん中に立って「シャローム=あなたがたに平和があるように」と告げました(ヨハネ20章19節)。交わりは、その中心におられる主に支えられ、清められます。
 三つ目は「パンを裂くこと」です(原文は「パン裂き」)。コリント書(一10章16節)は、この「パン裂き」をキリストの体にあずかる聖餐として述べています。しかも、偶像礼拝の問題との対比で取り上げています。偶像礼拝は、多くの人身御供を求めます。この度の戦争も、「栄光のロシア」という偶像を拝むためのものです。しかし、主イエスは御自分を犠牲として捧げ、十字架につけます。私たちを罪と死から救うためです。ここにまことの礼拝が生じました。
 最後は「祈り」。パウロとシラスに命を助けられた看守は、「救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねました。前の晩、二人が神を讃美し、祈っていたことに心を動かされていました。彼らは言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)。神を讃美し、祈る、私たちの信仰は自分だけでは終わらないのです。
 
   (1月1日の主日礼拝から。牧師井上一雄)