9月の礼拝説教から

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   聖書 使徒言行録 17章10〜15節
 
     
 

 10兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。11ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。12そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。13ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。14それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。15パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。

 
      (c) 日本聖書協 会『聖書 新共同訳』 より
 







           
  説教 「主が備えておられる道」  
           
  ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた(11節)。  
 



 
           
   パウロには、生涯を決定づけられた道があります。キリスト教への迫害の息をはずませて歩んだダマスコへの道がそれです(使徒言行録9章1節以下)。ここで彼は突然倒され、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける主イエスの声を聞きます。この時を境に、キリスト教への迫害者サウロはキリストの使者パウロになりました。キリストに捕らえられた人は、キリストに伴われた道を歩むのです。
しかし、彼の場合、伝道しては追われ、伝道しては追われる道でした。行く先々でユダヤ教徒の反感を買い、投獄されたことも、命を付け狙われたことも、投石されて死に掛けたこともあります(14章19節)。それでも伝道をやめません。敵をも愛し、「不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5章6節)方が導いておられるからです。
テサロニケから逃れたパウロは、ベレアに着きました。わたしたちの住む町にもいるように、ここにも福音に耳を傾ける人々がいました。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(11節)とあります。「素直」と訳されたギリシア語は、もともと「気高い」という意味の言葉です。ここでは、福音を感情や先入観によって拒否しない姿勢として示されます。「調べる」というギリシア語は、「繰り返し」という副詞と「探求する」という動詞が合わさった言葉です。彼らは、「神に道を聞きながら生きる人」として謙遜な生活をしていたのです。
「洗礼はゴールではない。求道生活の本格的な始まりだ」とよく言われます。確かにそうです。御言葉に聞くことを軽んじた途端、わたしたちは道を失います。そのため、受洗から何十年経っても、私たちもまた「途上の人」です。主が示される道を求める「求道者」であり、生涯、主の御言葉の真理を求める「探求者」です。
勿論、その道は、余裕を失い神経質に追い求める道ではありません。主イエスは「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ福音書11章30節)と言われました。そのイエス・キリストに担われて歩む道です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8章3節)とあるように、御言葉そのものがわたしたちを生かします。
 
   (9月6日の礼拝の説教から。牧師井上一雄)